ゴシック建築の光 (1) – 光のイメージとゴシック建築

西洋の人々にとっての「光」とは?
光のデバイスとして生まれたゴシック建築に垣間見る「光」の存在意義とは・・・

 

自然の光に対する信仰はキリスト教の出現する前からあった。自然の光、つまり太陽の光が生物の誕生生育繁殖をもたらす恵みの源と考えられていたからである。

一方、キリスト教では神は光なりという聖書の捉え方があり、イエス自身、自分を光とみなして以下のように言っている。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」これらは目には見えない自然界を超えて存在する非物質的な光、永遠の生命のことを表している。

中世の一般の人々にとり、物質的な光に対してこの抽象的な光は理解し難いものであった。つまり、神学者が信ずる超自然的、非物質的、可知適な光と大多数の中世人が信じる自然的、物質的、可感的な光には決定的な溝があったのである。この溝を埋めてキリスト教における光の認識を人々に広めることを狙いとして、サンドニ修道院のゴシック化工事が行われたといわれている。

その改革にはある神学者の「光の神学」を理論上の支えとした。

「光の神学」には以下のようにと説かれている。

神の光は不動の同一性を維持しつつ、被造物たちに向けてその光を発出し、さらに被造物たちから神自身に向けてこの光を還帰させて被造物たちとの統合を実現する。

つまり、被造物たちは程度の差こそあれ、みな神の非物質的な光をそれぞれの程度に分けもっているという理論である。 そして物質的な光は非物質的な光のイメージであり、このイメージはつまり神の光を指し示すとともに神の光を内在させている記号なのであるとしたのだ。この説を人々は受けいれ、地上の光を肯定することは天上の光を肯定するという意識につながった。 教会堂の中で物質的な光をカリスマ的に発することができればその光は神のカリスマ的な光を再現していることになる。

大きな窓から降り注ぐ幻想的な光は知性よりも感性で神をとらえていた当時の人々にとって単なる光ではなく、神の存在を表す光となった。そしてゴシック教会堂の空間は地上にありながら神の国を志向する場所、天上に向けてかけられた架け橋的な存在として人々に認識されるようになったのである。

 

当時の人々にとって、ゴシック教会堂の光は私達が窺い知れないほど神聖で光輝な光であったことを思うと、光が与えることができる影響力の大きさを改めてしみじみと感じる。単に物を照らすだけでなくイメージをも育むことができる光は、これからも時代を超えて形を変えながら私たちの新しい世界に新しい輝きを与えていってくれることだろう。

 

image: © Nicolas Sanchez