「とかく物事には明暗の両方面がある。 私は光明の方面から見たい」

とかく物事には明暗の両方がある。私は光明の方面から見たい。
そうすれば、おのずから愉快な念が湧いてくる。

新渡戸稲造

―物事には明るい面と暗い面とがある。見る視点によって物事をプラスにもマイナスにも捉えることができる。明るい面から見るようにすれば、前向きな思考となり、明るく積極的な意欲が湧いてくることだろう。―

新渡戸稲造(1862年~1933年)は日本の教育者、思想家、農学者。「太平洋の架け橋になりたい」という夢を持ってその夢を実現するべく努力し明治時代後半から第二次世界大戦の前にかけて活躍した。国際的な活躍をし、日本人からも多くの共感を得、五千円札の肖像になったことでも知られている。特に「武士道」を英語で執筆し、日本人の精神、大和魂を世界に発信した功績は大きい。

新渡戸の略歴をみてみる。
1862年盛岡に生まれ9歳で東京に出て主に英語を学び語学の才能を現す。東京英語学校を経て15歳で札幌農学校に入学し農学を学ぶ。このころ洗礼受けてクリスチャンとなり、内村鑑三らと共に信仰と勉学の日々を送る。

21歳で東京大学に入学。その後東大を退学して、私費でアメリカに留学し、アメリカ人メリー・エルキントンと結婚する。帰国後札幌農学校教授となるが、過労のため、脳神経症となり休職して療養する。療養中に「武士道」を英語で執筆。アメリカでも出版され大反響を呼び、ベストセラーとなる。

1920年には国際連盟の事務局次長としてジュネーブに滞在し国際間の架け橋となる。
1933年カナダの太平洋会議に出席の際、カナダで71歳の生涯を終える。

以上のように、戦前の時代には珍しく、国連初の事務局長次長を務めたり、アメリカの大学で講義を行ったり、英文で著書を書き上げたりと国際的な活躍をした新渡戸稲造。彼の英語力が高かったことに加えて彼の「日本と世界の架け橋になりたい」という強い意志が様々な活躍に繋がっていった。

彼が「武士道」を執筆したのは、過労のため精神を病んで療養している最中であった。体調不良の中、日本人の心を世界に紹介したいという熱意で本を英文で書き上げたのである。そこに彼の強い精神力、忍耐力、実行力をみることが出来る。
脳神経症で休暇中という「暗」に悲観することなく、この期間に日本を世界に紹介するという「明」に視点を移して武士道の執筆を実行し成し遂げたことは、まさしくこの格言の真意を身をもって示した行為だと思える。

今なお日本人の心を知る術(すべ)として評価の高い「武士道」は、これからも日本人の精神の根本を知るために日本だけでなく世界の人々にも読まれ、新渡戸の名前も長く記憶されていくことだろう。