「知識は、たゆまぬ努力によって絶えず刷新されなければなりません。それはちょうど砂漠に立つ大理石の像のようなものです。太陽の光の下で輝き続けるためには、像をつねに磨き続けなければなりません。」   

アルベルト・アインシュタイン(1879~1955年)は「現代物理学の父」と称されるドイツ生まれの理論物理学者であり、「20世紀最大の物理学者」と言われている。一般相対性理論をはじめとする様々な理論を構築しそれまでの物理学を根底から覆した人物である。

アインシュタインはユダヤ人でドイツ南部に生まれた。幼少期は意外にも5歳頃まであまり言葉が話せない子供であった。6歳頃からヴァイオリンを習い始め、ヴァイオリンが生涯の友となる。数学に関しては特出した才能を示し、9歳でピタゴラスの定義を自力で証明をしている。

その後スイスのチューリッヒ連邦工科大学の入学試験に臨むが失敗し一浪して入学する。
学生時代は、興味のある科目成績は優秀であったが、興味のない科目は最低の成績をとるという生徒であり、化学実験の際に爆発事故を起こしたり、教師に反抗的で授業をよく休んでいた。

大学卒業後は就職が思うように決まらず、アルバイトで収入を得つつ論文執筆に取り組んだ。2年後にはスイス特許庁に審査官として就職し、そこでは好きな物理学の問題に取り組む自由が十分に生まれる。

1905年はアインシュタインが「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」に関する5つの革新的な論文を発表した年で「奇跡の年」と呼ばれている。それらの論文は後の物理学に多大な影響を与えた。10年後には「一般相対性理論」を発表し、1921年にノーベル物理学賞を受賞する。

当時ドイツの別荘に住んでいたアインシュタインはナチスによるユダヤ人迫害ムードが強くなったため、1935年にアメリカに亡命する。
そして1939年に大統領あてに原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙を書き署名する。アインシュタインは直接原子爆弾の製造に関わったわけではないが、核爆弾の有効性を記したこの手紙を書いたことを生涯後悔し続けたと言われている。

終戦後は核兵器の廃絶や科学技術の平和利用などを世界各国に伝える内容の「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名し平和運動と「統一物理論」の研究に力を注いだ。
晩年は不自然に生かされることを嫌い、手術を拒否して入院中までも実験を続けようと試みたが力尽きて75歳の生涯を終えた。

知識は、たゆまぬ努力によって絶えず刷新されなければなりません。それはちょうど砂漠に立つ大理石の像のようなものです。太陽の光の下で輝き続けるためには、像をつねに磨き続けなければなりません。

天才と言われ、多くの光輝く理論を生み出したアインシュタインではあったが、その陰には常に学び、研究し、考察して理論を構築していくという地道に努力する姿があった。この格言にはその努力の大切さを誰よりも知っていた彼の信念が表されている。

彼の残した偉大な理論は私達の生活に多大な影響を与え、その偉大な功績はゆるぎないものとしてこれからも輝き続けていくだろう。