「光あるうち光の中を歩め」


レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイ(1828年~1910年)は19世紀ロシア文学を代表する文豪で小説家、思想家である。あらゆる秩序を批判し、暴力を否定し、トルストイ主義と呼ばれるキリスト教的な人間愛と道徳的自己完成を説いた。

「光あるうち光の中を歩め」はトルストイが1887年、58歳の時に執筆した小説である。キリスト教が国教化する以前の原始キリスト教時代に託してトルストイの宗教哲学がそのまま語られており、キリスト教の教えを讃える内容となっている。

人生を幸福に生きるにはどうすれば良いのかについて人は迷い、悩み、苦しみながらその答えを探し求めて生きる。自分の欲望を捨てて、人のために生き、すべてを平等に愛しみ、神を信じることにより、真の幸福が得られるということをトルストイはこの小説で説いている。
物語はローマ時代のある商人がキリスト教の理念に共感しながらも、俗世の誘惑やしがらみから信仰生活に踏み出せなかったが、人生の終盤でようやく原始キリスト教団に帰依していくという内容である。

キリスト教徒が政治犯としてローマ政府から迫害され、民衆からも忌み嫌われていた原始キリスト教時代にキリスト教を信じるということは普通の生活を捨てることになり、覚悟が必要であった。信者になろうとしながら何度も諦めてしまう商人とキリスト教信者の友人との議論が展開され、最終的に商人は信者となって幸福な生活を送ることができる。信仰心があれば信者になることはたとえ時間がたってからでも遅くはないというメッセージが込められている。

旧約聖書にはヨハネによる福音書にキリストの言葉として
――「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」――
とある。

この場合の光はキリスト自身のことを指しており、キリストが十字架に架かり地上からいなくなる前にこのチャンスを逃さずに信じなさいという信仰の決断を迫っている言葉である。イエスを信じない人々は暗闇の中にいるがイエスを信じればその暗闇を明るく照らしてくれ、迷うことなく正しい道に導いてくださるというメッセージである。
トルストイは、このキリストの言葉を引用し、キリストの教えに忠実に生きることを勧めたこの小説の題名とした。

トルストイ自身も40代後半から人生の無意味に苦しみ、自殺を考えるようになる。
精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方に惹かれ、自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ、その教義を広める思想家として活動するようになった。
 

 光あるうち光の中を歩め

 
光を宗教として捉え、自己の欲望を捨て他人の前に生き、全てを等しく愛し、神の忠実なるしもべとなることで初めて真の幸福が訪れると説くトルストイの熱い思いが込められた言葉である。