「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない。」

明石海人(あかし かいじん)(1901~1939年)はハンセン病を患いながらも短歌を発表し「慟哭の歌人」と呼ばれた歌人である。

静岡に生まれ20歳で小学校の教諭になり24歳で結婚、26歳の時にハンセン病に罹患する。当時ハンセン病は最も恐れられた病気であった。福岡の病院に療養のため入院するが、その後精神に異常をきたしてしまう。

31歳の時に兵庫の病院に移る時にはその容貌も一変してしまい悲惨な姿であった。しかし33歳の時に海を眺めながら体全体がふわっと包まれているような感じに襲われるような神秘的な体験をする。そして次のような想念が浮かんだという。

「この宇宙には、神秘的な力が働いていてその力を神とか仏とか言うのではないか、とすれば、自分が生まれたこともハンセン病になったことも崇高なことに違いない。」
この体験から彼は運命を受容する境地に到達し、運命のままこらからの人生をひたむきに生きようと心を固める。

そして詩歌の創作が新しい夢となり、限られた時間の中でこの世に生を受けた証しを命がけで残していきたいと考え、詩歌の創作に意欲を燃やしていくのである。
36歳の時には失明し、病魔が容赦なく海人の肉体を蝕んでいく中、詩歌の研究 短歌を詠むことに励んでいった。

晩年には手足も麻痺してしまっていたが、精神はますます研ぎ澄まされて創作意欲が衰えることはなかった。そして「白描」という歌集が出版された38歳の時にその短い生涯を終えた。

深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない

劣悪な状況でも自ら光を放とうとしたその姿勢の根幹には、この格言にあるように光の無い世界においても自らが情熱を持って生きることで自分が光輝くことができるという信念があったのだろう。そして光を失った人達に自分の気持ちを伝えることでそれが温かい光になって戻ってくることをひたすら願っていた。
彼はこう述べていた。自分の書くものが何らかの光となって数万のハンセン病の上に返ってくるように・・・それが私の念願なのです。

「白描」は25万部のベストセラーとなり、海人の命を削って詠んだ短歌は多くの人の共感
を得た。38年という短い生涯だったが、彼の歌や生き方は精神の持つ崇高さを我々に教えてくれたと言えるだろう。