「この黄金の輝きも茶の一服に勝るものかな」

豊臣秀吉(1536~1598年)は安土桃山時代の武将。1558年に織田信長に仕え、信長の死後、信長の後継者としての地位を獲得し、1590年には天下を統一した。信長の政策をほぼ継承したが、検地・刀狩りなどの画期的な新政策を行い、幕藩体制に至る基礎を築いた。晩年朝鮮に出兵したが、戦果が上がらないまま62歳で病没した。茶の湯などの活動も盛んに行い桃山文化を開花させた。

この黄金の輝きも茶の一服に勝るものかな

―金の持つ高い価値とその華やかな輝きも一杯のお茶を楽しむひと時の素晴らしさにはかなわない。

天下を統一し、財力権力も手に入れた秀吉は金を非常に好み様々なものを金で製作させていたという。秀吉所用の陣羽織や鎧、軍のシンボルである馬印、車を引く牛の角までも金を使用して金色にしていたと言われている。

特に金の茶室は見事で茶室内は全て金で覆われ、茶道具も金に彩られていた。茶室は組み立て式だったため、大阪城、京都の御所、などに分解して運搬し、各所で帝から公家、大名、商人など多くの人々に公開し、自分の財力権力を誇示していた。

秀吉が金を多用したのは、単に金色の輝きを好んだというだけでなく、自分の得た力を象徴する輝きとして金に魅力を感じていたのではないかと思われる。しかし、そんな秀吉にとっての金の輝きもお茶の持つ素晴らしさにはかなわないと彼はこの言葉を残している。

秀吉は1587年には京都の北野神社と松原において「北野の大茶会」を開催した。この会は当時身分の高い限られた者の間だけで行われていた茶会を身分の低い者にまで広げて催し、茶の湯を大衆へも広めたものとして有名である。お茶の素晴らしさを多くの人に知ってもらいたいという秀吉の想いがあったからこそ実現した会なのであろう。

金は人類史上、最も古くから利用されている金属で、酸化も腐食もしないという不滅性が珍重され、その美しい輝きは多くの人を魅了してきた。

金の華やかな輝きに魅力を感じる心とお茶を飲むことから得られる素晴らしさを感じる心を持っていた秀吉。目に見える金の光の魅力よりも心の中に落ち着きと味わいを与えるお茶の魅力に高い評価を与えたこの格言は秀吉の人となりが表れている言葉かもしれない。