「愛とは誰かの心に、希望の灯をともすことです。」

日野原重明(1911~2017年)は日本の医師、医学者。聖路加国際病院の名誉院長・同理事長、聖路加看護大学名誉学長はじめ、国内外の医学会の会長・顧問など数々の要職を勤めた。日本でいち早く予防医療に取り組み、人間ドックを導入し、生活習慣病という言葉を普及させた。また、週末期医療に尽力し、日本初のホスピス専門病院を開設した。

105年に渡る自分自身の人生を生き抜くことで、自らが高齢化社会を豊かに生きるシンボルとなり現代人に生き方のモデルを提供した。また、医師としての立場・医療という領域を超え、いのちの大切さ、平和の尊さを子ども達に伝えるために「いのちの授業」を展開するなどその活動は幅広く、多くの人々に慕われ、2005年には文化勲章を授与されている。

日野原は山口県の牧師の家に6人兄弟の次男として生まれた。小学校4年の時に母が死の可能性もある病気になったが、医師に救われ、その体験から医者を目指そうという思いが芽生えたと言われている。
京都大学医学部卒業後、1941年に聖路加病院の内科医となる。アメリカ医学の祖と言われるウィリアム・オスラーの文献に出会い臨床医としての在り方を学んだ。その教えは患者を尊重すること、患者を病む臓器として診るのではなく病んでいる人として診ること、人間に深い興味と関心を持つことなどであり、彼の人生に大きな影響を与えている。

彼はいつも患者に寄り添い、その言葉に耳を傾けるように心がけていた。がん告知のような深刻な話をする時には細心の気配りを怠らなかったという。部屋が明るすぎたり暗すぎないように照明の光の加減を配慮したり、患者の視線の先に美しい花を置いたりして患者が彼に何でも話せるような環境を整えたという。

59歳の時に遭遇したよど号ハイジャック事件は人生の大きな転機になった体験であった。室温が40度にもなる飛行機内に3泊4日拘禁され、死を覚悟したという。無事に解放された後からは自分の命は「与えられた命」であるという気持ちで物事を考えるようになったと語っている。そして、許された第2の人生を自分以外のこと、世のため、人のために捧げようと決意するのである。

90歳を迎えようとする2000年の秋、日野原は「新老人の会」を旗揚げした。超高齢化社会を迎えつつある日本で、老人にしかできないこと、老人だからできることを、老人の使命として、老人の手で実現しようと言うのである。生かされている最期の瞬間まで、人は「いま」を自分という全存在をかけて生きる「人生の現役」なのだと主張し、支持を得る。

2007年105歳で人生の幕を閉じる時、彼は近親者たち一人一人を枕元に呼んで「ありがとう、ありがとう」と感謝の気持ちを伝えて静かに旅立ったという。

愛とは誰かの心に、希望の灯をともすことです。

この格言には彼の心温かい想いが溢れている。そして、どのような人にも愛をもって接した日野原の生き方そのものが、多くの人々の心に「希望」の灯をともす愛に満ちたものだったと言えるのではないだろうか。