「暗闇を呪うくらいなら、ローソクに灯をともしましょう。」

エレノア・ルーズベルト(1884~1962年)はアメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家。

エレノアは1884年にニューヨークの裕福な家庭に誕生した。父親は第26代大統領セオドア・ルーズベルトの弟である。エレノアが8歳の時に母親が、10歳の時に父親が亡くなり、母方の祖母の下、家庭教師により厳格に育てられる。

その後エレノアは15歳でイギリスの女学校に留学する。帰国後に貧困層の児童施設で働き、貧困な人々に接し大きな衝撃を受ける。この経験がその後の彼女の人生に大きな影響を与えた。

21歳でフランクリン・ルーズベルトと結婚し、その5年後にはフランクリンが州議会上院議員となり、エレノアは政治的協力者としての人生を歩み出す。しかしその11年後、フランクリンがポリオに罹患し政治活動を断念せざるを得ない状況になってしまった。その際、エレノアは彼の代行として精力的に政策を提言して全米を回った。その活動のお蔭でフランクリンは引退することなく、政治活動を継続することができたのである。

エレノア49歳の時1933年にフランクリンは大統領となり、3期12年間務めるが、1945年に急逝する。この頃エレノアは人権と社会正義の問題に深く関わるようになっており、世界のリーダーとして活躍し始める。62歳の時に人権委員会の委員長となり、「世界人権宣言」の作成を推進した。この世界人権宣言は、人は全て平等で自由であること、いかなる人権侵害もあってはならないと言うことを明言したもので、世界の人々の権利を保護する力となって今なお受け継がれている自由の憲章である。

エレノアはその後68歳でアメリカ国連代表となり、女性の地位向上に向けて活動し続けたが、78歳の時にニューヨークにて没する。

暗闇を呪うくらいなら、ローソクに灯をともしましょう。

—困難な状況に陥った時、その状況を嘆いているよりも明るい未来に目を向けて希望を持ちましょう—

エレノアの人生は一貫して社会的弱者の擁護に奮闘し、世界の平和のために行動した人生であり、多くの賞賛が寄せられたものであった。エレノア自身は、「私はその時々でしなければならないことをしてきただけです。」と語ったと言われている。

エレノアは「人権擁護の象徴」として今も多くの人が崇敬する存在であり、その生涯は人々の心の中に光輝きながら記憶され続けることだろう。




・ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
・人権の擁護者たちエレノア・ルーズベルト
https://www.humanrights.jp/voices-for-human-rights/eleanor-roosevelt.html