「教育は、その子の天賦の才能を見落とさず、光を放つように仕向けるという点で、世の中で最も大切なことである。」

福沢諭吉(1834~1901年)は幕末から明治中期の日本を代表する洋学者、啓蒙思想家。慶応義塾の創始者である。
福沢は、大阪の中津藩の下級藩士で儒学者の父のもとに生まれた。父は2歳の時に亡くなったため、母と5人の子供の暮らしとなり、子供時代の福沢は内職をして苦しい家計を助ける日々だった。
14歳で漢学を学び頭角を現し、20歳で長崎にて蘭学を学び、翌年には大阪で蘭学塾に入門し、後に塾長となる。
23歳で江戸に出て小さな蘭学の私塾を主宰し、これが後の慶応義塾の基となる。翌年には外国人の多い横浜を訪れて得意なオランダ語が通用しないことにショックを受ける。英語を学ぶ必要性を強く感じ、独学で英語を学び始める。
1860年から1867年にかけて幕府の遣欧米使節団に3回参加し、アメリカ、フランス、イギリス、ロシアなどを訪問した。その経験を「西洋事情」などの著作に著して、欧米文化を国内に向けて紹介して広めた。また、文明の本質を「人間交際」にあると考えて、多様な要素の共存が文明の原動力だとしてこれを自身の哲学の中心に据えた。
1868年33歳の時に「慶応義塾」を創設し、日本で初めて授業料制を取り入れた学校運営を開始し、熱心な教育者として活動した。戊辰戦争の際には、大砲の音を聞きながら講義を続け、塾生達に世の中で何が起ころうとも学ぶことをやめてはいけないと説いたと言われている。
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」で始まる「学問のすすめ」は、諭吉が38歳の時に刊行され340万部のベストセラーとなった。「人はみな平等である」と主張して現代に至る人権思想の礎を築いた。
諭吉はその後も教育家として教育支援の実施を継続していたが、68歳の時に脳溢血で自宅にてこの世を去った。この時、慶応義塾は大学部も含めて総生徒数が千数百人を超えており、葬儀には1万人を超える会葬者が参列したといわれている。
教育は、その子の天賦の才能を見落とさず、光を放つように仕向けるという点で、世の中で最も大切なことである。
—学ぶ者の才能を見出し、そしてその才能が開花して光輝くように教育することは何よりも重要なことである—
この格言には、諭吉の教育に対する強い信念が含まれていると感じる。彼は一人一人が自立するには、学問で様々な知識を身に付けることが重要であると訴えた。そして身分に関係なく学問を志す人が平等に学ぶことができる場を提供し続けた。
諭吉が注いだ教育者としての情熱は、多くの人に記憶され、そしてこれからも支持されていくことだろう。
・ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89#


