「陽を黄色い点に変える画家もいれば、黄色い点を太陽に変える画家もいる。」

パブロ・ピカソ(1881~1973年)は、スペインに生まれ、フランスで制作活動を行った美術家である。ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスム(*1)の創始者として知られる。
生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。
ピカソは1881年にスペイン南部のマラガで、美術教師の父のもとに生まれる。11歳から美術学校に入学し、16歳の時にマドリードの王立美術アカデミーに入学する。しかし、学校で学ぶことに無意味さを感じて中退する。その後、マドリードのプラド美術館に通い、ベラスケスらの名画を模写することで巨匠達の作品から多くを吸収した。

ピカソの作風は変化が激しかったため、その特徴により、制作時期ごとに名前がつけられている。1901年には親友の自殺にショックを受けて描いた絵をはじめとして青を基調に孤独や不安を表現した「青の時代」が始まる。

1904年からはパリに居を定め、色彩的に赤やオレンジ、などの暖色が優位となり、テーマは道化師、曲芸師などを描いた。この時期は「ばら色の時代」と呼ばれ、この頃から作品が売れるようになっていった。

1907~1908年はアフリカ彫刻の影響を強く受けた作品を制作し、「アフリカ彫刻の時代」である。この時期に制作した「アヴィニヨンの娘たち」は近代アートの原点と言われている。

1909~1914年は「分析的キュビズムの時代」、1912年~1921年は「総合的キュビズムの時代」とされ、彫刻でもキュビズム革命を起こした。

1917~1925年は「新古典主義の時代」とされ、キュビズムと並行して古典的な作品を制作した。バレエや演劇作品の装置、衣装を製作し、1916年以降は、彫刻や挿絵、詩作なども制作した。

1925年~1936年は「シュールリアリスムの時代」で、1937年には「ゲルニカ」を制作した。この作品は、スペイン内戦時のゲルニカへの爆撃に対して描かれたもので、泣き叫ぶ女性や、子供の遺体などが描かれており、ピカソの戦争や暴力に対する怒りと悲しみが込められた作品であり、見る者に強い印象を与える。

ピカソは晩年もその創作意欲は衰えず、陶器や版画の制作も行いながら絵画制作を続けた。そして1973年91歳の時に南フランスにおいて急性肺気腫のため死去した。

陽を黄色い点に変える画家もいれば、黄色い点を太陽に変える画家もいる。

―明るい光で輝く太陽を描く場合に、描く人のイメージやいろいろな視点により太陽の表し方は異なってくる。絵画はその画家が対象を見たままではなく、彼のイメージや思いに応じて表現して良いのだ。―

この格言は、常に先を見て革新的な表現方法を模索し、独創的なスタイルを確立してきたピカソの表現姿勢についての思いが表された言葉であろう。物事を固定観念で見るのではなく、多角的な視点で見て柔軟に自由に表現する素晴らしさを伝えたかったのではないだろうか。

参考
*1 「キュビズム」:複数の視点から対象を把握し、1枚の画面に構成する技法。
*2 パブロ・ピカソ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD