「虫だって光の好きなのと二通りあるんだ!人間だって同じだよ。 皆が明るいなんて不自然さ!」

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890年)オランダの画家である。

画家として活動した10年間に2000点の作品を制作し、同時代の多作の画家に比べても非常に多作家であった。

ゴッホは1853年にオランダで神父の父の家に生まれた。16歳で叔父の関係している画商を営む「グービル商会」に就職し7年間勤務したが勤務態度が問題になり解雇される。

「他人のために役にたちたい」という思いから牧師の道を目指すが受験が難関なために諦める。その後、伝道師を目指すが、過激な態度が伝道師には不適格とされ、結局伝道活動者になる夢は叶わなかった。

27歳で画家になる決心をし、画家として活動を開始した。「伝道師として挫折した私は絵画を通じて、救い、救われたかった」とゴッホは弟テオの手紙の中で画家を志す決心をしたことについて述べている。

30歳のころは貧しい人々への愛を絵で表現しようと農民の過酷な暮らしを題材に絵を描いた。33歳の時に弟テオのパリのアパートで同居を始める。

パリでは印象派の絵画に影響を受け、ゴッホの画風は暗い絵から明るく輝かしい色調の作品へと変わっていった。また、日本の浮世絵に出会い、その構図や色使い、力強い輪郭線などの表現の素晴らしさに感銘を受けたゴッホはテオと共に浮世絵を500枚以上も収集するとともにパリで浮世絵の小さな展覧会を開いた。

ゴッホは特に広重の浮世絵を好み、「自然の中に生きている素朴な日本人が僕らに教えるものこそ真の宗教ではないだろうか。」と述べている。ちなみに浮世絵には影が描かれていないのでゴッホは日本は真上に太陽がある国だと思っており、「光あふれる国・日本」として憧れていたと言われている。

35歳の時にアルルへ移住し、彼の代表作となる作品を次々と制作する。アルルではゴーギャンと同居したが、その関係は2か月で破綻してしまう。

その後、ゴッホはたびたび発作を起こすようになり、36歳でサン・レミの療養院に入院し、院内で絵の制作を続けた。その時代の絵画はゴッホの不安定な精神状態を表すかのような渦やうねりのある表現で風景を描いており、アルルでの明るかった作風から暗い作風に変化している。

37歳の時にブリュッセルの展覧会に出品した作品が売れ、これが生前に唯一売れた絵となった。その後、少しずつゴッホの絵の評判は高くなり世間に認められ始めていたが、その状況の中、ゴッホはピストルで自殺を図り、2日後に37歳の生涯を閉じた。

虫だって光の好きなのと二通りあるんだ!人間だって同じだよ。 皆が明るいなんて不自然さ!

小さい頃から癇癪もちで思い込みが激しい性格で周囲となじめず、就職しては客や上司と衝突し、家族や友人とも問題を起こし続けたゴッホ。

この格言には一人一人の個性が違ってもその個性を認めることこそ大切であることを訴え、そして自分をもっと認めて欲しかったゴッホの心が表れているように感じる。

代表作「ひまわり」の絵は黄色い色が印象的である。黄色はゴッホの好きな色であり、明るい南フランスの太陽、ひいてはユートピアの象徴であり、彼が人々の心の中にもあると考えていた光の象徴の色でもあった。

ゴッホの生涯には、苦悩、狂気、孤独、挫折、などの表現が並ぶ。しかし波乱に満ちた人生から生まれた作品は、ゴッホの繊細な心と静かな情熱を伝え、多くの人の心にこれからも光と感動を与え続けていくことだろう。




・ウィキペディア
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